「木をデザインする」という発想をコンセプトに
新潟県長岡市(小千谷市・見附市・三条市)で注文住宅・リフォームをお手伝いしている工務店
稲垣建築事務所の稲垣です。
本日は3月11日。内容は弊社HPの「自分史」の転載ですが
あの時間からボクがリアルに経験した3.11をお読みください。
■2011年(平成23年)3月11日・金曜日・14時46分
その年の4月から大学に進む娘と、ボクの姉が新潟市で買い物をすると言うので、
二人を新潟に送り、長岡に戻る途中の黒崎パーキングエリアへの進入路にいました。
「何事だ?」と思ってからこれはかなり大きな地震、しかも震源は遠い。そう思うまでに要した時間は短かったです。
正直、南海トラフを震源とする巨大地震ではないか?そう思っていたボクの車の車載テレビに映ったのは東北。
当時、大学生の息子は福島県郡山にいました。当然ながら電話もメールも息子には繋がりません。
黒崎パーキングエリアで一旦高速を降り、Uターンして福島に向かう決断をするのに時間は掛かりませんでした。
途中、安田インターで高速を降りてコンビニに寄り、
まだ店頭に並んでいなかったパンやおにぎりを分けて欲しいと店主にお願いしたところ、
「東北行くの?お金はもらうけど、全部持って行っていいよ」そうおっしゃっていただき、
トランクと後部座席一杯の食料と飲み物を積んで再度高速へ。
津川から先は通行止めでした。大渋滞の下道、猪苗代あたりまで進んだ時です。
その時点では息子の無事は確認できていました。
■絶叫
動かない車の中、車載TVの電波は届かない、
唯一鮮明に聞こえていたFM福島の男性パーソナリティは、絶叫に近い声でずっと同じフレーズを繰り返していました。
「家も大切です。もっと大切なものもあるかもしれない。けれど今はあなたの命より大切なものなんて無い。
どうか海には近づかないでください。あなたの帰りを待つご家族がいます」。
同じ言葉をずっと叫び続けていました。
絶叫と言ってもいい位の声を聴きながらあっちから消防車の車列、こっちからは救急車の車列、
渋滞を追い越していく新潟ナンバーの警察車両の車列、
そのけたたましいサイレンの音とラジオから流れる絶叫に意図せず涙があふれ、
唇を震わせていたことを覚えています。
何が悲しいのかわからない。どうして涙あふれたのかわからない。けれど、その時ボクはただただ泣いていました。
■郡山
息子のアパートに着いたのは23時頃だったと思います。
大学の体育館は近隣住民で満杯だった為、友人宅に数人で集まっていた様子。
食べ物も飲み物も全くなかったのでとりあえず自分たちの分を確保させ、残りは体育館に持って行ったようです。
「いったん帰ろう」そう言うボクに息子は
「友達は宮城、岩手、茨城の人間が多い。みんな帰れないのにオレだけ帰れない」そう言う返答に納得しました。
結局一人での帰り道、会津あたりはけっこうな雪の降り方で、来たときは通れた道も通行止めになっていて、
やっとの思いで長岡に戻ったのですが、翌日、今度は本当に息子を連れ帰る為に再び郡山に向かいました。
原発の爆発を受けて。
地震当日も、翌日も、郡山市中心部は人通りこそ無いものの、
ここからそう遠くないところであの大惨事があったということなど想像できないくらい街は普通でした。
ただ、郊外の大学周辺では古いアパートが斜めに傾き、街灯も家の灯りも全く無い町は、
まるでボクだけがこの世界に取り残されたかのような、生気のない町に変わっています。
■ボランティア
あの年のゴールデンウィークの最初にボク等がお願いしている基礎、板金、建具業者の社長と材木屋の担当者、
そして、一級建築士となった元担当受講生に声をかけ被災地にボランティアに出向きました。
ボクが声を掛けたら手を上げてくれたのが50人規模の大ボランティア集団だったのですが、
原発事故、そして放射能、ご家族の心配、誰も責めることは出来ない事情で人数は減り、最終的には20人で宮城県多賀城市へ。
殆どが一級建築士でしたが、今回は完全な肉体労働で床下の泥出し作業です。
■泣きながら話す自衛隊員
ボランティアセンターの方は他県の職員さんでした。全国の行政から応援に入っていられたのだと思います。
そこで会った明らかに息子と大差ない年齢の自衛隊の方々から聞いた話はあまりにショッキングでここではお伝え出来ません。
それを見てしまった彼等自衛隊の隊員、何かを訴える様に見てしまったものを教えていただく彼らの眼は真っ赤で、
少なくない心の傷があったと想像できます。
■泥出し作業
ボク等が向かった町内は海辺ではありませんが、そこそこ広い川があり、その川があふれたことによってあたり一面浸水したそうです。
震災から2か月弱経とうとしていましたが、その地域はほとんど手付かず。
指定された町内に向かう道すがらにあったコンビニはほぼ丸々水没したのだとすぐにわかったくらいです。
どこからか流されてきた車もあります。殆どのお宅が1階丸々水没したとおっしゃっていました。
男ばかりの20人、2班に分かれて10人ずつでも1日にお伺いできるのは2軒がやっと。
何軒かのお宅のお手伝いを終え、最終日に20人全員で伺ったお宅はご両親と娘さんで海苔を作られていたそうです。
住宅と、その隣の工場。建物は確かに古いけれど、趣のある、雰囲気のいい大きな建物でした。
まだ新しいと思える海苔を作る機械は完全に水没し、機械内部にも泥が詰まっていて、恐らくもう使えないのだろうということはすぐにわかりました。
畳下の板をはぎ、根太(ねだ)という部材を出来るだけ再利用できるように丁寧に外しました。板を外すと、大きなヒラメ(海水魚)と大きな鯉(淡水魚)が並んで干からびていたり小動物と
おぼしき亡骸も床下に流れ込んでいました。
流されてきたカニはまだ生きていました。
全員が既に疲労困憊の中、最後のお宅では全員、言葉が少なくなっています。
ただ、その分黙々と、決して小さくない体を折り曲げ、出来るだけ綺麗に、ボク等に出来ることの最大限はやって帰ろう。
無言の中の共通した意志だった気がします。
■こちらこそ、ありがとうございました。
ご家族3人で海苔を作っておられたご家族。その家の作業を終えて長岡に戻る時、御三方に呼び止められました。
「これ、私たちが作った最後の海苔だから、皆さんで分けて」
最後の海苔…そんな貴重な物いただくわけにはいきません。とお断りしても
「本当にありがたかった。気持ちだから。持って行って。」と。有難く頂戴しました。
先にバスに乗っていた他の仲間にそのことを伝え、一袋ずつ配ったらみんな無言で海苔を見つめています。
ご家族でバスが見えなくなるまで手を振ってお見送りいただき、
ボク達も角を曲がるまでずっと手を振り返しました。
全員がお祭り騒ぎの空元気で手を振り返しました。それがこのご家族を勇気付けられると信じながら。
翌日、女房から具の無い、頂いた海苔を巻いただけのおにぎりを作ってもらいました。
あんな美味いおにぎり食べたことなかった。美味し過ぎて涙が出ました。
ボク等ボランティアを地元の方は本当に温かく迎えてくださいました。
道行く子供たちは皆笑いながら「ありがとうございます」と手を振ってくれます。
芸能人やスポーツ選手が被災地に行き、必ずと言っていいほど「逆に元気をもらいました」と言いますが、
ボクは社交辞令、綺麗事だと思っていました。
が、その気持ちが100%理解できます。何故ならボク等も大きな勇気と元気を頂いたから。
何が有ろうと立ち上がろうとする皆さんからボク等は尊い何かを間違いなく受取りました。
ボクにとっての3.11。その序章はここまでです。
中越地震、中越沖地震で延べ3000軒以上の被災住宅を拝見したものの、それらとは全く違う被害状況を東北で見ました。
ボクの建物への考え方を変えたのは間違いありません。
未だ行方不明の多くの方々の骨の一辺でもいい。ご家族の元に帰る日が来ることを願い続けます。
↑写真はボランティアに行く前から腰を痛め、役に立たないけれど
どうしても行きたいと参加したメンバーが撮った写真です。