自分史

history

Episode 1小学校時代の衝撃

大工の棟梁の長男として生まれ、当時家に出入りしていた材木屋さんや色々な業者さんに「よお、2代目!」と可愛がってもらっていました。2代目?ナニそれ?という感じだったと思いますがとにかく家に色んな人が来ることが嬉しかった幼少期です。
幼い頃は仮面ライダーとブルース・リーに憧れて、ヌンチャク(スポンジ製)を振り回し、小学校時代はホントに成績悪かったです。家で教科書を開いたことなど無かったので当たり前です。
ボクの人生の岐路は割と早くて小学2年生?の夏休み。
昭和46年7月30日。(もしかしたらボクの転機は翌31日だったのかもしれません)
夏休みに入ったボクは親父の実家の広い前庭で従兄弟と遊んでいました。
田舎の農家ですから玄関はとても広く、玄関引戸も開けっ放しになっていて前庭でセミやオニヤンマを捕まえて遊んでいたボクの耳にふと、付けっ放しになっていたテレビから聞き覚えのある名前が飛び込んできます。
「長岡市立大島小学校 S教諭 死亡」
隣のクラスの担任の先生でした。
直接は教わっていませんが、いつもニコニコと話しかけていただき、大好きだったことは覚えています。
その年の7月30日、岩手県雫石(しずくいし)の上空で全日空機と自衛隊戦闘機が空中で衝突し、全日空機の乗員乗客162名全員がお亡くなりになった、飛行機が空中で衝突するという世界的にも稀な航空機事故が起きていました。
S先生は全日空機に搭乗されていました。
親父の実家の前庭で遊んでいたボクの耳に唐突に飛び込んできたS先生の名前とセミがうるさいほど鳴いていた音、振り返ったボクの眼に映ったテレビ画面は今でもよく覚えています。

Episode 2人生の転機…にならなかった高校時代

格闘技を身に着けたいと中学では柔道部に所属。そこそこ強かったのです。
当然ロクに勉強せず、成績は中の下を安定飛行していました。
自分の進路など微塵も考えていなかったので、高校は「入れるところに行きゃいいや」と考えていて、実際、入れるところに入学しました。
校則で禁止されていたことしかしていなかった高校時代。
1年生の夏休みに中型自動二輪免許を取得し、けれどあの当時流行っていた暴走族系「ツッパリ」には向かわず、3年間学校から真っすぐバイトに向かっていました。
曖昧な記憶ですが元日以外はほぼ毎日17時くらいから23時くらいまで今は無き喫茶店でアルバイトの日々です。
今考えたらバイトしてバイク乗り回して、相変わらず勉強などしていない。
成績なんていいわけがない…筈なのですが、高校ではそこそこの成績で(周りがボク以上に勉強していなかったので)進路決定の時期を迎えます。高校の担任の先生は体育の先生で、体育指導室に呼び出され「お前、進路どうすんだ?」と聞かれ、その時に初めて「レスキュー隊になりたい」と唐突に告げたのを覚えています。

Episode 3儚く散る幼少期からの夢

レスキュー隊員になりたい。
本当に何の前触れもなく唐突に言い出したボクに亡くなった母が納得したような表情で「きっとあの時の記憶なんだね」と言いました。
母曰く、幼かったボクは仮面ライダーにしか興味が無かったのに、あの雫石の事故の報道だけはテレビの前で正座して見ていたそうです。
その時母に教えてもらいましたが、チャンネルを変えながら、何も言葉を発せずに食い入るように事故報道だけを見ていたボクが心配になったそうです。
「幼くしてとても傷付いているのかもしれない」と。
ボク自身はまったく覚えていません。テレビを見ていたことも、その報道の中でレスキュー隊という存在を知ったことも、そもそもボク自身がレスキュー隊員になりたいと思ったことすらあの日の記憶とリンクするなんて思ってもいませんでした。
阪神淡路大震災以降、ハイパーレスキューは消防に移りましたが、(記憶では)映像で見ていたレスキュー隊員は背中に「警視庁」の文字があったと記憶しています。
高校の担任が色々調べてくださり、「先ずは警察官になり、その後選抜でレスキューへと入隊するようだ。ただな、稲垣、警察官になれたとしてもお前ではレスキュー隊員にはなれない。身長制限がある」
警察官になりたいのではなく、レスキュー隊員になりたかったボクは目指す前からなりたい職業が無くなってしまいます。
細かいことは覚えてもいないのですが、その時に何か資料的なものを見せられ、「ああ、自分ではダメなんだ」と思ったことだけはよく覚えています。
今ではそんな身体制限など無いのでしょうね。
他にこれと言ってやりたいことも無かったボクは進路を決めなければならないギリギリまでノラリクラリと遊んでました。いよいよ決めないと今でいうフリーターにならざるを得ないというタイミングで、大工の棟梁だった親父を見て育ったせいなのか仕方なく、と言いますか、自然に、と言いますか建築を志します。

Episode 4今までを取り戻すがごとく

進学してからのボクは我ながら勉強しました。小学校から高校までの12年間、全くと言っていいほど勉強しなかったボクですし、大して興味もなく進んだ建築の道でしたが、自分でもびっくりするくらいの負けず嫌いがいかんなく発揮されます。
大先生の建築を見に鈍行を乗り継いで大阪に行ったり、崇拝していた建築家の設計した全国に点在する住宅は殆ど見に行きました。
恐らくはご近所から不審者疑いの眼で見られていたと思います。
レスキュー隊員への夢を持っていたことすら忘れるくらいでした。
1985年8月12日。
翌日の13日にボクは車で帰省していました。
群馬県を走行している時、ここからそう遠くない場所に日航ジャンボ機が墜落している。
当然何もできない。けれど、そこに行きたい。
幼いころの、あの雫石の事故の記憶が蘇ってきました。
ボクの中のレスキュー隊員への夢はキレイさっぱり消えてなくなったわけではないのだと知ります。

Episode 5永遠に続くと思えたバブル

時はバブル期。今考えればすべてが異常な世界なのですが、それが永遠に続くのではないかと錯覚するほど浮かれてイカレた時代。
にわかに信じてもらえないのですが、鳶も出来る型枠大工棟梁の「日給」が30万円。
現場の駐車場にはその当時まだまだ少なかったBMWやベンツが並び、そこから作業着の職人さんが降りてくる。たまに連れて行ってもらった高級クラブでゼネコンさんが払う金額は軽く100万円オーバー。設計事務所に勤務し、既に二級建築士は取得していましたが、なんにせよペーペーなのは間違いないボクです。そんなボクに全員年上の部下が3人もいたという話でバブルの異常さは十分ご理解いただけると思います。
いずれにせよ、この国に二度と来ないであろうバブルという狂乱した時代、末期とは言え、貴重な人生経験になりました。

Episode 6人生において最も苦しく楽しかった1年

24歳から25歳に変わる時、一級建築士に合格します。
死ぬんじゃないかと思うほど勉強しました。いや、半分死んでいたのかもしれません。
もう二度とあんなにひたむきにはなれないと思えるほど勉強しました。
1次試験が7月、2次試験が10月。そして翌11月には結婚式が決まっていました。
実は、結婚式当日まで式場に行ったことすらないし、自分が何を着て式に臨むのかすら、よくわからない状態。母と女房に任せっきりで明けても暮れても勉強勉強。
(当時では)日本一若い一級建築士になってやる!
その一念で勉強しまくりました。そして不合格になるわけがないと思えた1年です。
我ながら一生懸命ではありました。
一生懸命ではありましたが、何か日々の充足感みたいなものは感じていなかった頃です。
ここから数年後、その後の30年以上ライフワークとも、趣味?とも言える
一級建築士設計製図(2次試験)対策用の講師として450人以上を一級建築士に合格させてきました。合格させてきた、と言うと偉そうですが、彼ら一人一人と一緒に格闘した日々や出会いはボクの人生の宝物です。

Episode 7転機

ボクが地元に戻り何軒目かにお手伝いさせていただいた長岡市川西地区のK様というお宅があります。住宅のことをとても勉強されていて、濃密な打ち合わせ時間を過ごさせていただきました。今でも、このK様とのご縁を頂けたことがボクの原点になっていると思うと共にその後30数年、建築屋とお客さんという所を超えた関係をいただけたことはボクにとって記念すべきお手伝いだったと感じています。
実は一級建築士になり、親父から会社を受け継いだ時ですら心の奥底にレスキュー隊員へのあこがれが残っていました。
そんな想いだけ抱えていたボクの足元で中越地震が起こります。
あの日のことはよく覚えていません。
何回目かの激しい揺れを大きくうねる長生橋の上で経験し、震源の山の方が明るく光る(発光現象と言うらしいです)のを目撃しました。長生橋の上で「これは橋が落ちるな。ここで死ぬのかもしれない」と思ったほどです。背丈ほど飛び出したマンホールをかわしながら農道を走り、どの道をどういうルートで走行したのかも覚えていない程に廻れる限りのお客様の家を夜通し回っていました。
社員にも一斉に「とにかく家族を連れて回れるだけのお客さんを回ってくれ」と。
翌日には自ら市役所に電話をし、応急危険度判定で赤、黄、緑の紙を貼る作業を被害の大きかった地域から回らせていただきました。恐らく地震翌日から動けた建築屋は多くはないはずで、仕事を任せっきりにした社員には感謝しかありません。
数年後に再びこの地を襲う中越沖地震と合わせ、応急危険度判定、被災度判定、プライベートで頼まれた調査を含めると有に3000軒以上は被災住宅を拝見しました。
その時の経験が住まい造りという生業に、リアルに影響したのは間違いありません。

Episode 8人を助ける仕事

中越地震時に印象深い出来事があります。
震源地に近いある地域の避難所となっていた小学校で住宅相談窓口担当として詰めていた時、一人のおばあちゃんが訪ねてこられました。
本当は相談窓口では被災住宅に出向いて状況を拝見することまで求められてはいませんでした。いえ、逆にそういったことをするなとお達しがありました。
ですが、あまりにも切なそうなそのおばあちゃん。すぐに席を立ち、拝見しました。
旦那さんは数年前に亡くなり、お子さんに恵まれなかったと話される80年前に古材で建てたと言うおばあちゃんのご自宅は最早原形すらとどめない状態で倒壊をかろうじて免れている状態でした。
親戚が多いから実家として残してやりたいとおっしゃるおばあちゃんは「なんとかこの家を残せないか」そう考えておられたようです。
よく見ると殆どの土台や柱の根元を白アリに食い尽くされ、あの日、おばあちゃんがいたおじいちゃんのお仏壇のある部屋。
その部屋だけは大黒柱だったのであろう太めの柱がつっかえ棒となり部屋としての痕跡がわかる。そんな状態でした。
斜めになった柱を撫でながら、あの地震でよくぞ耐えて、おばあちゃんの命を守ってくれたね。そんな想いでした。
おばあちゃんに対して、嘘を言ってなだめては駄目だと感じ、「直らない家なんてないです。けれど、お金のことだけを言えば直すより建て替えた方が遥かに安上がりなはずです」そんなことをお伝えしました。
実際、元々基礎が無い建て方の上、土台も柱も再生できる材料はほぼない。
ボクはおばあちゃんと一緒に泣いていました。
地震は弱者を狙い撃ちにする。本当にそう思い、憎みました。
ひとしきり泣いた後、おばあちゃんはボクに深々と頭を下げ「わかっていたんです。でも諦めきれなくて。稲垣さんに言われて諦めが付きました。これからどうするかゆっくり考えます」とおっしゃったおばあちゃんの腕には、ボクがおばあちゃんや周りの人に止められながらその家に入って持ち出した、その日まで見つけられずにいた、額に入った旦那さんの写真といくつもの御位牌がありました。
ありがとう。
を何度も何度も繰り返されるおばあちゃんの言葉に、一級建築士であること、建築屋であること建築でも人を助けられる。
遅ればせながら、その時初めて建築という仕事を誇りに思いました。
(後日、ご近所の方に伺いましたが、おばあちゃんはご親戚所有のアパートに移られたと聞いています)

Episode 9番外編・3.11 あの日のこと

■2011年(平成23年)3月11日・金曜日・14時46分
その年の4月から大学に進む娘と、ボクの姉が新潟市で買い物をすると言うので、二人を新潟に送り、長岡に戻る途中の黒崎パーキングエリアへの進入路にいました。
「何事だ?」と思ってからこれはかなり大きな地震、しかも震源は遠い。そう思うまでに要した時間は短かったです。
正直、南海トラフを震源とする巨大地震ではないか?そう思っていたボクの車の車載テレビに映ったのは東北。
当時、大学生の息子は福島県郡山にいました。当然ながら電話もメールも息子には繋がりません。
黒崎パーキングエリアで一旦高速を降り、Uターンして福島に向かう決断をするのに時間は掛かりませんでした。
途中、安田インターで高速を降りてコンビニに寄り、まだ店頭に並んでいなかったパンやおにぎりを分けて欲しいと店主にお願いしたところ、「東北行くの?お金はもらうけど、全部持って行っていいよ」そうおっしゃっていただき、トランクと後部座席一杯の食料と飲み物を積んで再度高速へ。
津川から先は通行止めでした。大渋滞の下道、猪苗代あたりまで進んだ時です。
その時点では息子の無事は確認できていました。

■絶叫
動かない車の中、車載TVの電波は届かない、唯一鮮明に聞こえていたFM福島の男性パーソナリティは、絶叫に近い声でずっと同じフレーズを繰り返していました。「家も大切です。もっと大切なものもあるかもしれない。けれど今はあなたの命より大切なものなんて無い。どうか海には近づかないでください。あなたの帰りを待つご家族がいます」。同じ言葉をずっと叫び続けていました。絶叫と言ってもいい位の声を聴きながらあっちから消防車の車列、こっちからは救急車の車列、渋滞を追い越していく新潟ナンバーの警察車両の車列、そのけたたましいサイレンの音とラジオから流れる絶叫に意図せず涙があふれ、唇を震わせていたことを覚えています。
何が悲しいのかわからない。どうして涙あふれたのかわからない。けれど、その時ボクはただただ泣いていました。

■郡山
息子のアパートに着いたのは23時頃だったと思います。
大学の体育館は近隣住民で満杯だった為、友人宅に数人で集まっていた様子。食べ物も飲み物も全くなかったのでとりあえず自分たちの分を確保させ、残りは体育館に持って行ったようです。
「いったん帰ろう」そう言うボクに息子は「友達は宮城、岩手、茨城の人間が多い。みんな帰れないのにオレだけ帰れない」そう言う返答に納得しました。
結局一人での帰り道、会津あたりはけっこうな雪の降り方で、来たときは通れた道も通行止めになっていて、やっとの思いで長岡に戻ったのですが、翌日、今度は本当に息子を連れ帰る為に再び郡山に向かいました。原発の爆発を受けて。
地震当日も、翌日も、郡山市中心部は人通りこそ無いものの、ここからそう遠くないところであの大惨事があったということなど想像できないくらい街は普通でした。
ただ、郊外の大学周辺では古いアパートが斜めに傾き、街灯も家の灯りも全く無い町は、まるでボクだけがこの世界に取り残されたかのような、生気のない町に変わっています。

■ボランティア
あの年のゴールデンウィークの最初にボク等がお願いしている基礎、板金、建具業者の社長と材木屋の担当者、そして、一級建築士となった元担当受講生に声をかけ被災地にボランティアに出向きました。
ボクが声を掛けたら手を上げてくれたのが50人規模の大ボランティア集団だったのですが、原発事故、そして放射能、ご家族の心配、誰も責めることは出来ない事情で人数は減り、最終的には20人で宮城県多賀城市へ。
殆どが一級建築士でしたが、今回は完全な肉体労働で床下の泥出し作業です。

■泣きながら話す自衛隊員
ボランティアセンターの方は他県の職員さんでした。全国の行政から応援に入っていられたのだと思います。
そこで会った明らかに息子と大差ない年齢の自衛隊の方々から聞いた話はあまりにショッキングでここではお伝え出来ません。それを見てしまった彼等自衛隊の隊員、何かを訴える様に見てしまったものを教えていただく彼らの眼は真っ赤で、少なくない心の傷があったと想像できます。

■泥出し作業
ボク等が向かった町内は海辺ではありませんが、そこそこ広い川があり、その川があふれたことによってあたり一面浸水したそうです。
震災から2か月弱経とうとしていましたが、その地域はほとんど手付かず。
指定された町内に向かう道すがらにあったコンビニはほぼ丸々水没したのだとすぐにわかったくらいです。どこからか流されてきた車もあります。
殆どのお宅が1階丸々水没したとおっしゃっていました。
男ばかりの20人、2班に分かれて10人ずつでも1日にお伺いできるのは2軒がやっと。
何軒かのお宅のお手伝いを終え、最終日に20人全員で伺ったお宅はご両親と娘さんで海苔を作られていたそうです。
住宅と、その隣の工場。建物は確かに古いけれど、趣のある、雰囲気のいい大きな建物でした。
まだ新しいと思える海苔を作る機械は完全に水没し、機械内部にも泥が詰まっていて、恐らくもう使えないのだろうということはすぐにわかりました。
畳下の板をはぎ、根太(ねだ)という部材を出来るだけ再利用できるように丁寧に外しました。板を外すと、大きなヒラメ(海水魚)と大きな鯉(淡水魚)が並んで干からびていたり小動物とおぼしき亡骸も床下に流れ込んでいました。
流されてきたカニはまだ生きていました。
全員が既に疲労困憊の中、最後のお宅では全員、言葉が少なくなっています。
ただ、その分黙々と、決して小さくない体を折り曲げ、出来るだけ綺麗に、ボク等に出来ることの最大限はやって帰ろう。無言の中の共通した意志だった気がします。

■こちらこそ、ありがとうございました。
ご家族3人で海苔を作っておられたご家族。その家の作業を終えて長岡に戻る時、御三方に呼び止められました。
「これ、私たちが作った最後の海苔だから、皆さんで分けて」
最後の海苔…そんな貴重な物いただくわけにはいきません。とお断りしても「本当にありがたかった。気持ちだから。持って行って。」と。有難く頂戴しました。
先にバスに乗っていた他の仲間にそのことを伝え、一袋ずつ配ったらみんな無言で海苔を見つめています。
ご家族でバスが見えなくなるまで手を振ってお見送りいただき、ボク達も角を曲がるまでずっと手を振り返しました。全員がお祭り騒ぎの空元気で手を振り返しました。それがこのご家族を勇気付けられると信じながら。
翌日、女房から具の無い、頂いた海苔を巻いただけのおにぎりを作ってもらいました。
あんな美味いおにぎり食べたことなかった。
美味し過ぎて涙が出ました。
ボク等ボランティアを地元の方は本当に温かく迎えてくださいました。
道行く子供たちは皆笑いながら「ありがとうございます」と手を振ってくれます。
芸能人やスポーツ選手が被災地に行き、必ずと言っていいほど「逆に元気をもらいました」と言いますが、ボクは社交辞令、綺麗事だと思っていました。
が、その気持ちが100%理解できます。何故ならボク等も大きな勇気と元気を頂いたから。何が有ろうと立ち上がろうとする皆さんからボク等は尊い何かを間違いなく受取りました。
ボクにとっての3.11。その序章はここまでです。
中越地震、中越沖地震で延べ3000軒以上の被災住宅を拝見したものの、それらとは全く違う被害状況を東北で見ました。ボクの建物への考え方を変えたのは間違いありません。
そして、未だ行方不明の多くの方々の骨の一辺でもいい。ご家族の元に帰る日が来ることを願い続けます。